地蔵信仰考

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いつもお花がいけられているお地蔵さん いつもお花がいけられているお地蔵さん いつもお花がいけられているお地蔵さん いつもお花がいけられているお地蔵さん いつもお花がいけられているお地蔵さん
 昔から地蔵ほど多く造られて信仰され、さらに多くの歌に歌われた仏様は他にありません。それは地蔵をめぐる日本人の感情が、いかに複雑で多様であるかが伺われます。そのうちで空也上人の西院河原地蔵和讃は、あまりにも有名であります。
 
  「西の河原の物語、聞くにつけても哀れなり。哀れなる哉児が、立廻るにも拝むにも、唯父恋し母恋し、恋いし恋いしと泣く声は、この世の声と事変わり、悲しさ哀れさ骨も身も砕けて通る許りなり。残せし着物を見ては泣き、手遊びを見ては思いだし、達者な子どもを見るにつけ。なぜに我が子は死んだかと。嘆き悲しむ哀れさよ。児は河原にて此の苦労、一重積んでは父のため、二重積んでは母様と、さま幼なる手を合わし、礼拝廻向ぞしほらしや三重積んでは古里の、兄弟我が身と廻向する。」
   しかし夜になると地獄から鬼が来て、積んだ石を壊し、子どもを責める。「やい、子供、汝等は何をする。娑婆と思いて甘えるか。汝等の父母は、供養するけど、ただ明け暮れに嘆くばかり、親の嘆きは汝等が、苦患を受くる種となる。汝等は罪なく思うかや、母に乳房が出ないとき、お前は泣く泣く無理を言い、父が抱こうとしたとき、母の胸を離れようとしなかったではないか。」
 「峰の嵐が吹くときは、父が呼びしと起き上がり、水の流れを聞くときは、母が呼ぶかと走る下り、辺りをみれど母もなし、父を呼べど父も来ず母を呼べども母とても、知らぬが死出の山路なり、この苦しみを如何にせん、こけつ転びつ憧れて、逢いたや見たや恋しやと、もだへ嘆くぞ哀れなり。」ここで地蔵がきて、子供
に、汝等命短くして冥土の旅に
来たけれど、今後はわれを冥土の父母とたのめといって、幼
きものを裳の内にかき入れて、抱き抱えるのであります。
 この和讃は、子を失った親はただ自分の悲しみだけにひたっている、この親のセンチメンタルが結局は親のエゴイズムに過ぎない。子供はかえって、そんなに親が悲しむ限り成仏できないことを説いて親の悲しみの感情を否定するとともに同時に親に対して、無罪であるかにみえる子の死も、けっして無罪でなく子は子としての罪があったことを教えて、無罪の子に対する親の不憫な心を静めるという二重の意味を持つ。二重の諦めを説きつつ、地蔵菩薩によって、現世において子を育む役をすべて、地獄においても地蔵に委託することによって、親は子供への不憫な思いから逃れて安心を得るのです。

 地蔵菩薩は、人々に非常に親しまれている仏様であります。地蔵菩薩像を本尊とした寺は全国に無数にあるばかりか、村の入り口、町の角、田畑のすみ、峠の頂上、お墓の中など地蔵菩薩像は我々の生活の中にとけ込んで在ます仏様です。
 村はずれにあるお地蔵さんは、村の境にあって、悪霊が外から侵入してくるのを防いだり、死者の霊が甦ってくるのを防ぐ道祖神に代わって、その役目を引き受けられ、さらに死後の世界における死者の苦悩を一手に引き受け、死者の罪を救済し解脱へ導き、生者の死者に対する痛恨の念を解消する役割を担います。

 地蔵のもとの姿は、万物を生ぜしめる古代インドの大地の神
であり、疾病を治し怨敵を降伏
する女神であったものが、いつの間にか男神となり、やがて大乗仏教の中に取り入れられました。これが中国を経て我が国に伝来しましたが、平安時代になって広く信仰されるようになりました。
 地蔵の名は、地は万物を生ぜしめるものであって、種子をまけば生長して、葉、花、実を作り出すように大地は偉大な功力を蔵している。これと同じくこの菩薩は、すべての衆生を救済する偉大な功力を蔵する土地のようであることから、この名が起こりました。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道に姿を現し、永久に苦しむ六道の衆生を救済する。現世の人は、貪欲、瞋恚、嫉妬、慳恪、邪癡、驕慢、睡眠などの悪の全てが常に生じるが、このときに菩薩の名を呼び、一心に帰依すれば、その苦から解脱することができ、容易に涅槃に安住し、楽を得ることが可能となります。この現世利益と過去に死した人の罪障を救済し解脱へと導く菩薩として信仰されるようになりました。

 地獄に堕ちた人を救うこと、三途の川で迷う幼児を導き、今はなき愛児の未来を救ってもらえる菩薩として、児を失った親には唯一の頼る仏として無限の信仰を親からかち得ました。お地蔵様の首に我が児が日常使用した「よだれかけ」をかけて、亡児の冥福を祈る母親の信頼を得ました。このようなことからお地蔵さまは子どもを守る仏様となり、その地蔵盆は、子どもの盆として今も賑やかに町・村・辻つじで、あの世の子どもとこの世の子どものまつりとして伝承されてきました。
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