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湯立神事

 天見にある八幡神社では、7月に夏宮と称して湯立神事が催行されます。
 湯立神事は、古くは湯起請とか盟神探湯式といわれ、当社ではお湯たき、湯釜祭と称されています。社伝では後醍醐天皇寄進といわれ、延元5年(1340年、南北朝時代)の鋳造名のある鍔をめぐらせた羽釜に獣脚3足を備えた鋳鉄製の釜(三足の湯釜としては最古.大阪府指定重要文化財)を用いて行われていたが、今は大阪市立美術館に預けられているので、代替の湯釜で神事が行われます  (2019年7月中旬取材)。>> 続きを読む...
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大阪府指定重要文化財の湯釜湯釜を拝殿前に据え、清水(昔は葦谷山井谷の八幡淵から汲んでいた)を釜に一杯に満たし、薪を焚いて湯を沸騰させて、その中に御米・御酒・塩を供え、神職が数十本束ねた笹の葉を両手に持ってかき混ぜた後、笹の葉の束で熱湯を氏子や参拝者に振りかけ、ミソギをして健康を祈願する神事です。
 神事の初めは、正否勝負などの祈願のための祭式でありましたが、時代の変遷により五穀豊穣・氏子の安泰を神明に祈願する風習となりました。献湯した残湯は氏子や参拝者がめいめい持ち帰って、悪い病気に罹らないようにとか、田に虫害が出ないようにと家族で飲み、残りは稲田に注ぎます。また笹の葉は数本づつ持ち帰り家の入り口に刺して魔除けとしたり、田の畦畔や水の取り入れ口に刺して虫除けにする呪術的要素の強い習俗が残っています。
 また醤油を自家製造していた頃は、糀麹の中に入れると良い糀麹ができて、美味しい醤油が出来ると信じられて伝承されていました。
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湯立ての起源は、応神天皇の朝戊戌(あしたのつちのえいぬ)9年4月に武内宿祢(たけのうちのすくね)が勅使として筑紫に赴いたときに、武内の弟・甘美内宿祢(うましうちのすくね)が天皇に讒言して「武内が筑紫で三韓をかたって謀反の企てをしている」と奏す。天皇が怒って使いを遣わして武内を殺せと命じた。壱岐直(いきのあたい)真根子(まねこ)が武内の身代わりとなって死ぬ。武内が密かに都に帰って科のない理由を天皇に申した。天皇は武内と甘美内を神前で熱湯に手を入れさせて占ったところ、武内が勝って元の官職に復帰した。これを湯起請いい、これから始まる(本朝年代記圓會巻之二から)。
 社伝によると当社の盟神探湯式は、元弘2年12月(西暦1332年)に楠多聞兵衛正成公が当社に参拝して、朝敵討滅のために盟神探湯式を行って、皇軍の武運長久を祈願しました。これが当社の探湯の起源とされています。
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