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楠公祭

檜尾山 観心寺で行われる楠公まつりは、大楠公・楠木正成の命日に当たる5月25日に行われる供養祭であり、首塚の前で墓前法要が行われます(当山では5月20日〜5月25日の日曜日)。
 金堂前をご詠歌衆が先に出立された列に、中院を出立された僧侶衆が建てかけの塔前で加わって錬供の隊列が整い墓前に向かいます。開山堂前でご詠歌衆に迎えられた僧侶衆が墓前に入場されます。既に墓前に来賓・関係の参拝者が参列され、また横に建立されている開山堂内には既に琴・尺八の演奏隊が待機しており、そこへご詠歌衆が加わります。  (2023年5月下旬取材)>> 続きを読む...
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法要に先立ち国歌の起立斉唱があり、読経の後、尊師の願文と大楠公顕彰会会長の誓文の奏上 がされます。ご詠歌(大楠公和讃)と琴・尺八、詩吟(天野天籟作・大楠公)の奉納が続きます。その後、般若心経の読経の中で参列者の焼香が続きます。
この墓前法要の他に境内では、少年剣道大会や詩吟大会が恩賜講堂で、琴・三味線・尺八の共演の演奏が拝殿で行われます。
 昔は近隣近在の村々から人が集まりお祀りをし、素人角力や武道大会、剣舞などが行われ賑やかであったそうです。
観心寺は寺伝では、天武天皇の大宝元年(701年)に役小角(えんのおずぬ)(役行者)が開創し雲心寺と称したとされています。その後、平安時代の大同3年(808年)、弘法大師空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請(かんじょう)したといわれています。弘仁6年(815年)に再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、寺号を「観心寺」に改称されます。
  観心寺の実質的な開基は、空海の一番弟子にあたる実恵(じちえ)であるとされています。天長4年(827年)(または天長2年とも)、実恵の意を受け、弟子の真紹(しんじょう)が造営を始めました。正平14年(1359年)に後村上天皇の行在所となりました。そのため境内には後村上天皇桧尾陵があるます。また 観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺としても知られています。
 境内に建掛塔(たてかけとう)があり、三重塔の一重目だけが建てられた、未完成の建物であると言われています。伝承によれば、楠木正成は、建武の中興新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦で討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになっているといいます。戦死した正成の頭部は、敵将足利尊氏のはからいにより当山に届けられ、葬られた所に首塚を建て祀られています。
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法要に先立ち国歌の起立斉唱があり、読経の後、尊師の願文と大楠公顕彰会会長の誓文の奏上 がされます。ご詠歌(大楠公和讃)と琴・尺八、詩吟(天野天籟作・大楠公)の奉納が続きます。その後、般若心経の読経の中で参列者の焼香が続きます。
この墓前法要の他に境内では、少年剣道大会や詩吟大会が恩賜講堂で、琴・三味線・尺八の共演の演奏が拝殿で行われます。
 昔は近隣近在の村々から人が集まりお祀りをし、素人角力や武道大会、剣舞などが行われ賑やかであったそうです。
観心寺は寺伝では、天武天皇の大宝元年(701年)に役小角(えんのおずぬ)(役行者)が開創し雲心寺と称したとされています。その後、平安時代の大同3年(808年)、弘法大師空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請(かんじょう)したといわれています。弘仁6年(815年)に再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、寺号を「観心寺」に改称されます。
  観心寺の実質的な開基は、空海の一番弟子にあたる実恵(じちえ)であるとされています。天長4年(827年)(または天長2年とも)、実恵の意を受け、弟子の真紹(しんじょう)が造営を始めました。正平14年(1359年)に後村上天皇の行在所となりました。そのため境内には後村上天皇桧尾陵があるます。また 観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺としても知られています。
 境内に建掛塔(たてかけとう)があり、三重塔の一重目だけが建てられた、未完成の建物であると言われています。伝承によれば、楠木正成は、建武の中興新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦で討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになっているといいます。戦死した正成の頭部は、敵将足利尊氏のはからいにより当山に届けられ、葬られた所に首塚を建て祀られています。
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墓前へ向かう僧列閉じる
墓前追悼閉じる
「大楠公」詩吟の奉納閉じる
金堂前でのご本尊へのお詣り閉じる
本坊への帰院閉じる