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松明屋の正御影供

 下天見にある松明屋では、弘法大師・空海上人が入定された旧暦3月21日を新暦にして4月21日に正御影供が行なわれています。  従来から、上人を毎月お祀りなさっていますが、特に4月21日は上人が入定された日であるので正御影供と称して、上人の偉徳を慕い報恩感謝を捧げる法要を営まれます(2012年4月21日取材)。>> 続きを読む...

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 昭和の終わり頃までは、正御影供の日には、近隣から沢山のお詣りの人があり、粽を作ってお供えをし、お供物として参詣人や近隣の家々に配ったり、餅撒きをして盛大に法要したそうです。近年の少子高齢化で地域の人口が減少し、以前ほどの盛大な法要が出来なくなりました。とはいえ信仰心の厚い地域の人たちにより脈々と受け継がれています。  堂内には、厨子に安置された弘法大師像がお祀りになり、花やお供物が捧げられて、奉納された粽が吊り下げられています。燭台には灯明がともされています。僧職が座す前にはいろいろな法具が置かれています。さぞや往時は盛大な法要が行われていたであろう様子が、ふつふつと湧き出されます。
 松明屋は、天見の北端(現在、下天見)野街道添いにある古い家で、戦前までは弘法大師直伝の粽(ちまき)を売っていました。粽は小石ほどの小さな餅団子を笹に包んで粽形にしたものを10個束にしたもので、大師粽と呼ばれ万病に効くとして、また厄除けとして旅人が好んで求めました。この家は松明屋として長く栄えました。 また、 この家の軒に松の古木があり、 共に大師にまつわる伝説が伝えられています (別項・松明屋の伝承をご覧ください)
 このような伝承から当堂で、偉徳を慕い報恩感謝を捧げるために大師をお祀りされるようになったそうです。今でも大師を信仰する有志の人たちは、粽を作ってお供えして大師を偲ぶ様になりました。
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【松明屋(別名、松明堂、松明茶屋)の伝承 】
 弘仁年間(810年頃)、 嵯峨天皇の御召しにより京へ参内するため空海が高野山を子の刻に松明を照らして出発しました。道中ここまで来たところで夜が明けたので、この家で休憩をしました。空海は、朝食のもてなしを受けたお礼に粽の製法を教え、別れに臨んで松明の燃え残りを軒端の地上に突き立て出立しました。 不思議なことに、 この松明が芽を出して成長し大木になったと言われています。
 また別の伝説では、弘法大師が高野山を開こうと志して、京都の東寺から高野山の守護神に百日の日参の願かけをしました。満願の日にここまで来たところで、夜明けとなりました。夜通し使ってきた松明を、この地に突き刺したところ、松明の木から根が生 え枝が伸びて大木になりました。また粽についても、松明屋の先祖が空海を家に招いて粽を差し上げたところ、「私は空海という僧である。この粽に永代不滅の加持をしておこう。身を清めて粽を作れば、そのまま加持となる」といって、粽に永代不滅の加持をしたといういい伝えもあります。
 この地に次の2首の歌が残されています。
「くらかりし道は天見の里なればあかりの木こそ地にいれなむ」
「おしえたる粽は千と歳の後までもあしきやまいはたちさりぬとぞ」
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真言宗の開祖(774〜835)。最澄とともに平安仏教を代表する僧。死後、弘法大師とおくり名された。中国から真言密教を伝え、高野山に金剛峯寺を創建。宇宙の統一源理は大日如来であるとし、三密(身・口・意とよばれる行で、身に印契を結び、口に仏の真言をとなえ、 (こころ)で仏を観じる)の行の実践をつうじて大日如来と一体化することで、即身成仏(死語の成仏でなく、宇宙のきよらかな命を力強く生きることができる)を説いた。諸国を遊行し真言宗の布教につとめた。わが国最初の民衆の教育機関である綜藝種知院を開設し、諸地方を巡って庶民の教化につとめた。62歳で世を去ったが、優れた実行力は全国各地に彼の徳をたたえる伝説を生んだ。詩文や書道にも優れ、多芸多才の人であった。主著「十住心論」「三教指帰」「性霊集」
【空海のことば】  手に印契をなし、口に真言を誦え、心三摩地(雑念を離れて1つの対象に集中する状態)に住すれば、三密相応じて加持するが故に早く大悉地(だいしっち)(解脱の境地)を得る。・・・・行者もし()くこの理趣を観念すれば、三密相応ずるが故に現身(うつしみ)に速疾に本有の三身を即身の義もまたかくのごとし。(即身成仏義より)
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弘法大師・空海上人をお祀りなさっている様子閉じる
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